集団的自衛権〜合憲論を主張する憲法学者の頭の中とは?

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「集団的自衛権を合憲とする学者はいっぱいいる」と言ってしまった菅官房長官も、実はあんまりいなくて答弁に困ってましたね。

あんまりいなかったけど、どうして合憲なのかは気になりますよね?

この点、明治大学の高橋和之先生が、学説のだいたいの状況をわかりやすくまとめてくださっています。それをもとに憲法のことをあまり知らない人にもわかるように解説してみますね。
これをお読みになれば憲法学者の考えがわかるようにがんばってみます。

まず、憲法はそもそも国家権力が人権侵害しないように、その行為を縛るためにあるのだから、憲法を解釈する際にも、その基準をはっきりさせる、つまり一定の「枠」をはめる必要があり、その「枠」は確かに存在する。と、多くの憲法学者は考えています。

それで、この解釈の基準である「枠」が絶対不変不動のものだと捉えると、枠の外にある国の行為、例えば、集団的自衛権行使は憲法に違反するものと言えます。これが、憲法学者の大半の考え方です。先日、国会で証言した3人の憲法学者の先生たちも同様の考え方をしています。

これに対して、菅官房長官が名前を挙げた合憲論の憲法学者のひとり、橋本公亘先生の考え方はこうです。

つまり、先ほどの、憲法解釈の基準となる「枠」そのものが、社会の変化とともに「変わる」と考えているのです。ですから、憲法制定当時は、集団的自衛権の行使は、その当時の解釈基準の枠をはみ出ているので違憲だったけど、現代の安全保障環境などを考えると、その解釈基準の枠は変化していて、いわば広がっているので、昔はみ出して違憲だった集団的自衛権行使も、今では枠の中に入っているので、合憲だ、という考えです。

さらに、もっとラディカルな合憲論もあります。長尾龍一先生の考え方です。長尾説は、先ほどから前提としている、憲法解釈の枠そのものが存在しない、という説です。なぜ枠が存在しないのかというと、憲法に書いてあることは抽象的すぎて、そのままでは、はっきりした意味がわからないから、それを解釈する時の政権や裁判所が、「こういう意味だよ」と言って初めて憲法の内容が決まる、と考えているからです。

この説によると、法律が出来ていて、有効なものとされている国家行為、例えば自衛隊の活動も、「個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権も含むよ」と、時の政権や裁判所が言えば、合憲ということになります。憲法を解釈する基準である「枠」そのものがないので、憲法はあくまでも抽象的でその意味するところがはっきり決まらないので、時の政権や裁判所が合憲だといえば合憲だということになります。

他に菅官房長官が挙げていた、日本大学の百地先生の考えは、以下のとおりです。
すなわち、刑法の正当防衛と、国の自衛権の発動は、パラレルに捉えられる、としています。刑法では、他人が襲われている時、それを助けるために襲撃者に反撃することは正当防衛と認められています。だから、自衛権も同じように、自国の防衛のための個別的自衛権だけでなく、他国の防衛のための集団的自衛権も認めるべきだ、という考えです。

また、同じく菅長官が名前を挙げていた、橋本先生のお弟子さんである中央大学の長尾一紘先生は、橋本説を前提としているように見えますが、ご発言を聴いているとこんな感じです。

自衛権に個別的も集団的もないのが国連憲章で認められている国際法の常識なのに、日本の憲法が、集団的自衛権だけを認めていないのは、憲法の方が間違っているのだ、だから集団的自衛権は認めていい、というような考えのように聞こえます。

さらに駒沢大学の西修先生の議論は、憲法論というより、政治学ですね。

こう見ると、百地先生や長尾一紘先生、西先生の考えは、ちょっと憲法自体の議論から離れるので特殊ですね。

ここで、憲法を前提とした議論をまとめてみます。集団的自衛権の合憲論には、大きく分けると2つあり、1.憲法に解釈の基準となる一定の枠がないとする長尾龍一説、2.憲法が枠を定めていることは認めるとしても、社会の変化でその枠自体は変化するので合憲と考える橋本説ということになりそうです。

東京新聞の長谷川某を始めとして多くのジャーナリストも菅長官のような政治家も概して、「憲法学者は傲慢だ、憲法の有権的解釈権者は、お前たちじゃない!」なんて言ってますね。まあ、「それをいっちゃあ、おしまいよ・・・」(寅さん風)。

fine day I

みなさんは、どう思われますか?大多数の憲法学者のように、憲法の解釈基準の枠は変化せず、集団的自衛権行使は違憲と考えますか?それとも、橋本先生や長尾先生のように、憲法の解釈基準の枠は存在しないか、または、存在しても社会情勢で変化するので、合憲だとお考えになりますか?

次回は、自民党の菅官房長官や高村副総裁が拠りどころとしている、最高裁判所の「砂川事件判決」について、考えてみたい思います。

2 Responses to “集団的自衛権〜合憲論を主張する憲法学者の頭の中とは?”

  1. さとしぃ より:

    2.憲法が枠を定めていることは認めるとしても、社会の変化でその枠自体は変化するので合憲と考える橋本説

    社会の変化を誰が保障するのでしょうか。
    また、社会の変化に適合させるべき考え方と、社会の変化に左右されるべきでない普遍的な考え方が憲法にはあると考えます。
    そうあるべきでなければ、社会の変化を強弁して権力が国民を縛る様な条文や平和主義や民主主義、立憲主義に反する条文すら制定し得てしまいます。

    日本国憲法は、前文と103条からなる条文で構成されていますが、これらを串刺しに筋を通す考え方「法意」とも言える枠は確かに存在しており、この枠を変化させるという事は、主義・主張を変えることとなります。
    つまりそれは日本の国家体質を変えることに他ならず、憲法改正の域に留まらないと考えます。
    つまり、例えば民主主義でなくなる様な憲法改正であれば、新憲法を制定することと限りなく同義になると考えます。
    同様に、実質的な平和主義をやめる様な改憲をするのであれば、軍事権の定義等々、新たに制定されるべき条文が発生することを考えれば、この事も改憲の域を超えるとも考えられます。

    時代や社会の変化に場当たり的に改憲や解釈変更を繰り返せば、日本国憲法の法的安定性が危ぶまれる為、新憲法制定なのか改憲で実現すべきなのか、事案をしっかり見極める必要があると考えます。

    • teijinsensei より:

      さとしぃさん、書き込みありがとうございます。テイジンです^^

      憲法改正に限界があるのか、ないのか、とても気になりますよね?

      かってドイツのワイマール憲法が破壊される前に、同様の議論がありました。

      これは、ハンス・ケルゼンという人とカール・シュミットという人の意見の対立に集約された考えです。

      カール・シュミットは、民主主義の力に限界はなく、憲法を作る力(憲法制定権力)は、憲法改正の限界を超えて、どのような憲法をも制定しうるとし、国民の圧倒的な支持(アクラマチオ)があれば、独裁も許されるとして、ナチスを擁護しました。

      その結果どうなったかは、歴史が示すとおりです。

      そのため、現在のドイツは、「民主主義の敵には民主主義の恩恵を与えない」とし、「戦う民主主義」という体制をとっています。この体制のもとでは、民主主義や人権保障を破壊するような表現の自由は与えられていません。

      翻って、現在の日本はどうかというと、ドイツのような「戦う民主主義」の体制はとられていません。むしろ、憲法は、「徹底した価値相対主義」に立脚していると言われています。今の日本の立場はどちらかと言うと、かってのワイマール憲法に近いかもしれません。

      現在、安保法制が憲法違反であるとして、ある弁護士グループが、国家賠償訴訟を起こしています。彼らの中には、私も知っている人が何人かいます。彼らの危惧は、このまま憲法破壊が進めば、戦前のワイマール体制の二の舞いになる、というものです。

      さとしぃさんの意見に私も賛成です。
      憲法が規範性を有しているということの意味は、どんなに時代が変わっても、「決して変えてはいけない部分がある」ということにほかなりません。それはやはり、フランス人権宣言第16条に言われている、「権利の保障と権力分立が定められていない社会は憲法を持つものではない」という近代立憲主義のエッセンスではないかと思います。

      もちろん、憲法が立脚している徹底した価値相対主義も理解できます。それは、もしも、現憲法より優れた考えやシステムがあるなら、喜んで採用する、という考えだと思います。時代の流れによって、不都合をきたしている部分が憲法にはあると思います。こういう部分は、むしろ進んで改正すべきでしょう。現憲法を「不磨の大典」と言うつもりはもちろんありません。

      しかし、仮に押し付け憲法であっても、現憲法が内包している普遍的な部分も変えてしまおう、というのならやはり、それは、我々国民は、決然とNOと言うべきだと思います。

      さとしぃさん、また、ご意見ありましたら、どうぞ、ご遠慮無く書き込みしてください。
      ありがとうございました。

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