永遠に上書きされ続ける現在とやわらかな独裁(2)

(1)の続き・・・

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ここでいう柔らかな支配というのは何であろうか?

おそらくその最も強力なものは、民衆に忘れさせること、何でもなかったように思わせることではないか?

フレドリック・ジェイムスンは、「ポストモダニズムと消費社会」という著書の中で、以下の様なことを言っている。

すなわち、

「われわれが現在生きている社会システム全体は、それ自身の過去を保持する能力を少しずつ失い始め、永遠の現在、恒久的な変化において存在するようになってきた。

そこでは、かつてあらゆる社会形成が何らかの仕方で保ってきた伝統が消し去られている。
メディアがニュースを消耗させてしまうこと、つまりニクソンが、あるいはケネディならなおさらのことだが、今となっては大昔の人物になってしまったことを考えてみるだけでいい。
ニュース・メディアの機能とはまさに、そうした最新の歴史的経験を、一刻も早く過去のものにしてしまうことである、と言いたくなるくらいだ。

このように、メディアの情報的機能とは忘却させることであり、それはまさにわれわれを歴史的記憶喪失にするための機構として働いているのである。」

メディアは、毎日毎日どうでもいいくだらないニュースや、世紀の大事件や大事故のニュースを流し続ける。そうすると、第二次世界大戦も、原爆投下も、高度成長も、石油ショックも、バブル経済も、そして、911や311、フクイチでさえも、毎日毎日上書きされるニュースによって、それはすぐに忘れ去られ、単なる過去のものになってゆく。

以前どこかで、身体感覚を伴わない記憶は、経験ではない、単なる知識だ、と私は書いたと思う。ここでは、身体感覚を伴わない単なる記憶が、知識として毎日毎日更新されていく。ここでは、現在が、過去を上書きされた形でのみ存在し、過去からの連続性を失ってしまっている。ここにあるのは、「永遠の現在」である。

思うに、現在と過去とは、時間的な相対距離をもって存在し、その距離の長短は、私達の身体感覚によって測られるはずである。それは、自分が、「生きてきた」という実感を伴った教訓であったり、取り返しのつかない悔恨であったり、しみじみと振り返る「長く曲がりくねった道」である。毎日毎日を懸命に生きることによって実感できる身体感覚であり、それが、「歴史」というものではないだろうか。

しかし、現在我々は、毎日毎日、最新の情報を更新していく単なる携帯端末上のスクリーンだけが、自分は現在生きていることを教えてくれるような生活に慣れきってしまっている。

そこにあるのは、本当の冒険ではなく、スクリーンの中のRPGゲームであったり、実際の現ナマではなく、銀行の残高表示であったり、最も身体感覚を伴っても良いはずの自分の健康状態でさえも、血糖値やコレステロール値などの数値で測られ、医者に異常なしと言われるまでは健康であるという身体感覚はもちろん、生きているという身体感覚さえも、希薄になってしまっているのが、現代である。

永遠に書き換えられる現在、忘却され続ける身体感覚、失われる歴史、これがやわらかな支配の正体である。

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