永遠に上書きされ続ける現在と柔らかな独裁(1)

130516 The Promise of Abenomics

沖縄慰霊の日のテレビ朝日の報道を観た。あの摩文仁(まぶに)の丘で毎年行われている記念式典での模様がニュース番組の限られた時間の中で紹介された。そこでは、安部首相のスピーチの模様が延々と放送された、他方、地元の高校3年生が訴えた「みるく世(ゆ)がやゆら」(平和でしょうか)というタイトルのスピーチは、内容については全く報道されなかった。明らかに、放送する側のバイアスを感じざるを得なかった。テレビ朝日に対する不信感が募った。
さらに、NHKもこの模様を報じたが、安部首相に対する「帰れ」コールがあったことも報じなかった。

そこで、情報についての正確性とは何なのか、考えてみた。以下は、考えたことだ。

まず、情報社会学の権威、公文俊平氏によれば、完全に「生の情報」というのはありえないそうだ。
なぜなら、「情報の送り手の側が、意識するとしないとにかかわらず、情報の伝え方、編集の方法、評価などにより、その情報にはなんらかのバイアスが必ずかかる」からである。
これは情報の受け手の問題でもある。情報の送り手の意図と違って情報を解釈するかもしれない。情報の送り手受け手の以外の第三者に同じことが言える。

では、信頼するに値する情報とは何だろうか。

それは2つの要件を充たす必要があると公文氏はいう。
第一に、情報に含まれる事実に関する情報と、それ以外の情報の伝え方、編集や順序決定についての情報、評価についての情報、つまり伝達者の主観的状況を十分に検討することである。第二に、それをもとに受け手が自己の主観的状況と合致するという認識を持てること、つまり、大袈裟に言えば、「その世界観や価値観を共有できる」情報だそうである。

しかし、これを逆に言えば、ある情報が「価値あるもの」と評価したとたん、自分はその情報の送り手と価値を共有させられることを意味しないだろうか。だから、どうでもいい情報は別として(もちろんこの選択もバイアスがかかる)、自分の在り方を決する重要な情報を評価するときに主観的な好みやイメージで評価することはとても恐ろしいことではないか。

また、世の中の大半の雑誌・放送、ネットなどのメディアは、共感させることがとても上手である。大げさに言えば、それはつまりは、やわらかな洗脳なのである。大昔、映画「イージー・ライダー」の中で、時計を捨てる映像に共感した若者たちも、支配からの脱却を果たした気になっていただろう。でも、実はしかし、知らずのうちに柔らかな支配に取り込まれていたのだと今頃は気がついただろうか。

ところで、ここでいう柔らかな支配というのは何であろうか?

その2に続く・・・

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