数千万人の餓死者を出した大躍進政策の失敗により国家主席は毛沢東から劉少奇に交代した
1.劉少奇国家主席(任1959~68)
①人民公社の集団化を縮小し、個人利益を尊重
②核爆弾の開発に成功(1964)
③中ソ論争の激化
2.文化大革命(1966~76)
①毛沢東(共産党主席)ら左派は、実権派(走資派)の排除と
②毛沢東思想の定着と浸透をはかり、全国で紅衛兵運動・造反運動を展開
③劉少奇・鄧小平らの実権派は失脚し、林彪、四人組(張春橋・姚文元・王洪文・江青)が台頭
↓この後
中国共産党第9 回大会(1969)で、次の党主席に林彪が指名された
↓しかし
軍に対する共産党の優位を確立しようとする毛沢東によって、ソ連と内通して毛沢東の排除を企てたとして排斥され、海外に逃亡する途中、林彪は飛行事故で死亡(林彪事件)
↓さらにこの後
周恩来首相は、鄧小平ら文化大革命初期に批判された旧幹部や知識人を部分的にではあるが復権させ、この人たちと一緒に経済再建などにあたった
↓しかし
毛沢東の威信を背景とする江青(毛婦人)らの文革推進派は、批林批孔運動を展開して、毛沢東の個人崇拝を強め、周恩来や鄧小平らの実務派との対決姿勢をとった
↓そして
1976 年1月に周恩来が、同年9 月に毛沢東が相次いで死去すると、死去前に毛沢東の信任をえて首相になっていた華国鋒が、江青ら四人組を逮捕してクーデタに成功した
↓結局
1977 年、華国鋒首相は、鄧小平が副主席に復活することを認め、かつて周恩来の主張していた四つの現代化(国防・工業・農業・科学技術)を実現した
3.日中平和友好条約(1978)
4.米中国交正常化(1979)
5.1980 年以降、鄧小平、胡燿邦の指導体制が強化される
↓
趙紫陽が共産党総書記に就任した
↓しかし
天安門の民主化要求デモ(天安門事件)の責任を問われて解任される(1989)
↓その後
楊尚昆国家主席、さらに後任の江沢民国家主席兼総書記と李鵬首相が主導権を握った