1.日本の降伏後、インドシナ戦争が起こり、ジュネーヴ休戦協定が結ばれた(1954)が、その主な内容は
①北緯17度線を停戦ラインとする
②1956年7月に南北ヴェトナムの統一選挙を行い、ひとつの国になること
③フランスはヴェトナム、ラオス、カンボジア三国の内政干渉をしないこと
などである
↓ところが
このジュネーヴ協定を無視して、南ヴェトナムにヴェトナム共和国が成立し
親米派のゴ・ディン・ジェムが大統領に就任(1955)
↓しかし
ゴ政権は独裁的な権勢を振るって、市民を弾圧したので、農民・仏教界・
都市知識層の反発を買った
↓こうした状況に
ゴ政権打倒のため、広範な国民階層を結集した南ヴェトナム解放民族戦線を結成し南ヴェトナムの農村などでゲリラ活動を展開した。またこれには、共産主義の影響を受けたホー・チ・ミンの率いる北ヴェトナムの援助があった。
↓一方
アメリカは、ゲリラ活動を展開するこの解放戦線を、北ヴェトナムによる共産主義の侵略とみなして軍事介入することを決意し、南ヴェトナムのための軍事顧問団の派遣に踏み切った(1961)
↓さらに
南ヴェトナムでは、この解放戦線の活動のほかに、ゴ政権に対する反政府運動が活発化し、軍のクーデタによって、ゴ・ディン・ジェム政権はついに倒れた(1963)
↓この機会に
アメリカは本格的な軍事介入を開始し、アメリカの軍艦がトンキン湾で攻撃を受けた(トンキン湾事件)と発表(実は、これはアメリカ軍と南ヴェトナム軍のでっちあげだと後でわかった)、軍事介入に慎重なアメリカ議会からジョンソン大統領が特別権限を与えられることになる(1964)
↓
この特別権限により、解放戦線への北ヴェトナムからの物資の補給などを断つために、アメリカ空軍による北ヴェトナム爆撃(北爆)が開始された(1965)
↓ところが
北ヴェトナムと解放戦線は、ソ連と中国の援助を受けて抵抗したので、アメリカの予想に反して、戦争は泥沼化した。
↓そして
1968年1月、北ヴェトナムと解放戦線は、アメリカの軍事基地と主要都市への総攻撃をおこなった(テト攻勢、旧正月の休日のテトに休戦をしないで総攻撃をかけたのでこの名がある)
↓この結果
ジョンソン大統領は、内外の反戦の批判にさらされたため、北爆を中止し、パリで北ヴェトナムと和平交渉に入った(1968)
↓さらに
1969年に就任したニクソン大統領は、ヴェトナムからの撤退を決定し、南ヴェトナム臨時革命政府が成立したあと、本格的な米軍の撤退がはじまった(1970)
↓ところが
ベトナムの隣国カンボジアやラオスで共産主義勢力によるクーデタがあり、共産主義の拡大と北ベトナムへの補給をおそれたため、隣国のカンボジアやラオスなどに米軍が侵攻した。
↓この時期
ニクソンは中ソ対立を利用して中国を訪問し(1972)、ヴェトナム和平を有利に進めようとした。
↓結局
米軍撤退を内容とするパリ和平協定が調印され(1973)、米軍撤退後は、南ヴェトナム軍と解放戦線との内戦になったが、1975年、北ヴェトナム正規軍が南下し、サイゴンを陥落させてヴェトナム戦争は終結し
↓
南北ヴェトナムはハノイを首都とする、ヴェトナム社会主義共和国として統一された(1976)